ブレインストーミング:権利

民主主義とは何か?
権利を平等に分配することか?


最近感じるのは「権利以外のものまで平等に分配されるべきだ」という通念が存在しているということだ。
「何もしなくても持っていて当然」「存在するからには何をしてもしなくても権利がある」「そうでなければ不公平だ」といった論法で迫ってくる。
しかし努力、功績、それによって手に入れた知識、技術、利益、権利まで平等にというのは飲めない要求だ。
少なくとも分配する相手くらいは選ぶ権利があるだろう。


「NOと言えない日本人」とは言ったものだが、現代は「NOと言いたい」方向に傾いているんじゃないかと思う。
この場合、NOとは「反対」ではなく「棄却」や「不許可」といった意味合いが強い。
NOということは他人の提案を不許可にすることで、それによって権利を行使していることになる。
逆にYESというと「賛成」ではなく「許可」になる。
常に「賛成するかどうか」ではなく「許可を与えるかどうか」を考えているように思える。
こういった権利の行使によってある程度の余裕や優越を得ることに繋がり、それがアイデンティティの安定に繋がるのかもしれない。


たとえ話し合いに全く参加しなかったとしてもNOということで自分の権利を誇示することができる。
これはYESの「迎合」よりも自分を主張できる甘美な言葉なのだろう。


これは間違ってるのではないか。
この果てにあるのが、口に出すのもおこがましいが、NEETと呼ばれている連中ではないのか。
彼らは自分にあると考えた権利を行使しつづけた結果そうなったのだろう。
生まれてきたからには生きる権利がある。何もしなくても。
NEETがそういったら皆反論するに違いない。
しかし自分がそう主張することには疑問を感じることができない。


さて、極めて平等な場で「NO」「ごめんね」「すみません」、「YES」「いいよ」と、腐るほど聞かされた俺に少し思うところがあるのは言うまでもない。
果たしてこれが平等なのか。
真の平等とは単純に権利の等分配ではないと思うのだ。